大阪 四条畷市 解体工事 家解体工事 住宅解体工事 解体工事プラスワン |
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会社概要 |
社名 四条畷市解体工事 住宅解体工事 【解体工事プラスワン】
所在地 奈良県北葛城郡王寺町葛下3‐18‐1
電話番号 0120-755-004
業務内容 店舗・内装解体 家屋まるごと解体工事 小規模解体工事 ビル・マンション解体工事
営業時間 24時間対応 年中無休
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施工事例 |
四条畷市の解体工事に貢献します |
四条畷市は大阪市から約15kmほどの近郊に位置しており、奈良県と接する。市域の3分の2は生駒山地の一部である北生駒山地であり、市の中心部は生駒山地の西麓に広がっています。 市東部の田原地区は大阪府で唯一生駒山地の東麓に位置しており、しばしば奈良県域と誤解されなお、奈良県生駒市北田原町・南田原町に隣接しており、当市域を西田原、生駒市域を東田原と呼ぶこともあります。市中心部では国道163号と国道170号が交差しており、かつJR片町線の沿線でもあり、四條畷地区の東側は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。反対に生駒山地の東側は農業地帯・新興住宅地であります。こちらでは四条畷市の歴史文化財などを少しご紹介させて頂きたいと思います。古墳時代後期の大型前方後円墳 墓ノ堂古墳 墓ノ堂古墳(はかのどうこふん)は、中野一丁目に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。約1500年前の古墳時代後期初めに造られました。現在、中野共同墓地となり小高い高まりが残るのみですが、赤色立体地図(せきしょくりったいちず)などから検討を行い、造られた当時は墳丘長(ふんきゅうちょう:古墳の本体)約70m、周堤(しゅうてい:古墳を囲む堤)まで含めると全長約98mで、この時期では北・中河内地域最大の古墳とわかりました。過去に行った立会調査(たちあいちょうさ)でみつかった埴輪を再整理した結果、多くが東側周堤に立て並べられていたもので、円筒埴輪(えんとうはにわ)のほか、人物・武人・馬・蓋(きぬがさ:貴人が使用した傘)・家・大刀(たち)などの形をした多彩なものであることが判明しました。このことから、墓ノ堂古墳では、高槻市の真の継体天皇陵(けいたいてんのうりょう)ともいわれる今城塚古墳(いましろづかこふん)のように、周堤部分で多彩な形象埴輪(けいしょうはにわ)を用いた“まつり”が執り行われていたのかもしれません。さらに特筆すべきことは、四條畷市では初めて明らかとなった大刀形埴輪(たちがたはにわ)の存在です。大刀形埴輪は、近畿地方では十数例のみで、大変珍しい埴輪です。雁屋遺跡 雁屋遺跡(かりやいせき)は、雁屋南町(かりやみなみまち)、雁屋北町(かりやきたまち)、江瀬美町(えせびちょう)、美田町(みたちょう)にあり、弥生時代(約2500~1750年前)のはじめから終わりまで続く、北河内地域の中心となる拠点のムラです。 弥生時代前期の雁屋遺跡は、直径100mほどの小さな集団がいくつかに分かれて活動し、中でも市道雁屋畑線(かりやはたせん)建設時の調査ではムラが溝に囲まれていました。弥生時代は環濠集落(かんごうしゅうらく)が展開した時期で、ムラを溝で区画していくことを意識するようになった可能性があります。 みつかった土器には播磨系(はりまけい)や瀬戸内系のものが含まれ、石器には香川県産の可能性がある石材が含まれており、このムラはすでに近隣との交流の拠点となっていたようです。雁屋遺跡(かりやいせき)は、雁屋南町(かりやみなみまち)、雁屋北町(かりやきたまち)、江瀬美町(えせびちょう)、美田町(みたちょう)にあり、弥生時代(約2500~1750年前)のはじめから終わりまで続く、北河内地域の中心となる拠点のムラです。
弥生時代中期の雁屋遺跡は、遺跡の全体にムラが拡大し大集落が形成されます。府立四條畷保健所建設に伴う1992、94年度の調査では、中心域となる竪穴建物群を発見し、その一角には中期後葉に特殊な施設とみられる長辺8m以上の大型掘立柱建物があり、直径45cmの柱が抜き取られず残っていました。 それより南の病院建設による1985年度調査地や、府立四條畷高校東館、理科棟の調査地などでは墓地である方形周溝墓群を検出しており、これらを合わせた集落全体の規模は東西約420m、南北約300mに拡大しました。雁屋遺跡(かりやいせき)は、雁屋南町(かりやみなみまち)、雁屋北町(かりやきたまち)、江瀬美町(えせびちょう)、美田町(みたちょう)にあり、弥生時代(約2500~1750年前)のはじめから終わりまで続く、北河内地域の拠点となるムラです。弥生時代後期の雁屋遺跡は、中期からの繁栄が続き、居住域が直径300mほどの範囲に広がる大集落に発展します。居住域の南側は複数の同一方向の溝により区画し、その外側に墓域がありました。1985年度の病院建設による調査では、墓の周囲の溝から、供えた土器が多くみつかっています。山陰や北近畿のものが含まれていたため、広範囲に交流を行っていたことがわかり、この遺跡が様々な地域の人々が行き交う拠点だったことを示しています。飯盛城跡 飯盛城跡(いいもりじょうあと)は、四條畷市と大東市にまたがる飯盛山の山頂にあり、戦国時代に三好長慶(みよしながよし)が居城(きょじょう)としたことで知られます。彼はこの城を拠点に室町幕府の政治を動かし、近年、織田信長に先駆けての天下人として評価されています。1564年(永禄7年)に42歳で没し、その死は3年の間秘められ、城内の御体塚曲輪(ごたいづかくるわ)に仮埋葬したと伝えられます。平成30年11月に、御体塚曲輪で発掘調査を行い、飯盛城内で規模が想定できるものとしては初めてとなる建物跡を確認しました。「塼(せん)」と呼ばれるタイルを外壁の基部に並べた「塼列建物(せんれつたてもの)」で、周囲の地形から平面形が4m×6mほどの大きさで、櫓(やぐら)や蔵などの可能性が考えられます。一昨年度の調査では、神社などで類例のある台付きの灯明皿など特殊な遺物がみつかっており、この曲輪には特殊な機能があったと想定されます。大上古墳群 大上古墳群(おおがみこふんぐん)は、四條畷市大字清瀧(きよたき)にあり、古墳時代の中期から後期(約1600~1400年前)にかけてのもので、四條畷の平野地域で盛んだった馬飼いの人々が葬られた古墳が多くみつかっています。平成31年2月27日付の朝日新聞社会面で、大上7号墳出土の盾形埴輪(たてがたはにわ)が、古墳に葬られた人を悪霊から守るため、古代中国思想を起源とする四ツ目の呪術師「方相氏(ほうそうし)」を描いた可能性があるのではと紹介されました。大上7号墳は、古墳時代後期前半(約1500年前)のもので、平成26年の発掘調査で新たに発見しました。みつかった埴輪は、上下に向かい合うソラマメ形の文様などを組み合わせた線刻がある類例のないものです。これを「方相氏」の表現とみた場合、このソラマメ形は方相氏の目や口をあらわしている可能性があります。弥生時代の方形周溝墓 日本列島で稲作が行われるようになった弥生時代には、周りに溝を掘りその土を中央に方形に積み上げる集団墓地、すなわち方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が作られました。市内の雁屋遺跡(かりやいせき)で多く発見されており、それらからは20基以上の木棺墓(もっかんぼ)がみつかっています。中には葬られた人の胸から腹にかけての位置で10本以上の矢じりが出土したものもありました。これら弥生時代の墓は鎌田遺跡(かまだいせき)や蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)などでもみつかっています。平成25年には、宅地開発に伴って中野遺跡(なかのいせき)の発掘調査を行い、方形周溝墓の一部とみられる溝が新たに確認できました。これまでは明確な弥生時代の遺構は検出されていませんが、弥生時代の土地利用が中野遺跡まで広がることを初めて明らかにでき、当時の墓地が広がっている可能性についてもわかりました。正傳寺所蔵 薬師如来立像 成24年1月26日に、なわてのたから(市指定有形文化財)が新しくもう一件指定されました。新しく指定されたのは、上田原にある正傳寺(しょうでんじ)薬師堂の本尊の薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう)です。一本の木を削って作ったもので、高さ2メートル以上ある堂々とした像です。像に彫り出されている衣服の着せ方は、9世紀に多く見られるものです。しかし、衣服の彫られ方や、横から見た像の特徴からは、10世紀に作られた可能性もあります。いずれにしても、平安時代に作られた像と考えられます。この像は通常の如来像(にょらいぞう)と異なり右手を下げて左手を上げていて、両手首から先は後に作り直されたものです。この種の如来像ではこれほど大きな像は珍しく、また四條畷市内最古の本格的な彫刻として大変貴重なものです。なお、この像は明治時代に近くの森福寺(もりふくでら)が廃寺となったため、正傳寺へうつされたものです。奈良井遺跡 発掘した奈良井遺跡(ならいいせき)は、中野三丁目を中心としていて、市民総合センター建設の際に発掘調査を行い、古墳時代の中ごろから終わりにかけて(約1400から1600年前)、一辺が約40メートルある、馬に関わる祭りを行っていた場所が見つかった遺跡です。この祭り場は、溝で取り囲んでいて、その中で馬を「いけにえ」として神様にささげていた場所でした。しかし、この祭り場は全体が見つかったわけではなく、東側はどんな形なのかまだよく分かっていませんでした。馬の祭りをしていた場所を囲む溝の東側の続きの部分が見つかりました。溝からは、四條畷の古墳時代のものとしては初めてとなる赤く色を塗った土器や、ミニチュア土器、勾玉などが見つかりました(写真)。いずれも、生活に使うものではなく、祭りの時に使われるもので、当時の人々がどんな祭りを行っていたかを考える材料になります。また、馬の歯や、馬に与える塩を作る土器など、実際に馬がいたことを示すものも見つかりました。千光寺跡出土 3号墓遺物・6号墓常滑焼大甕、刻印瓦 平成24年12月24日に、なわてのたから(市指定有形文化財)が新しく9点指定されました。
新しく指定されたのは、平成6年度に新たに発見した田原(たわら)城主一族の菩提寺と墓地である千光寺跡から出土したもののうち、特に貴重なものです。
田原城主夫婦の墓と考えている3号墓は、斜面を削って平坦部を造り、そこに15から30センチメートル大の花崗岩の自然石を長さ約5.3メートル・幅約2.5メートル(復元)の長方形に区画したもので、その中央部から2基の埋葬施設(1、2号土壙(どこう))を設けています。1号土壙には、東播磨系須恵質甕(すえしつかめ)1 に、砕いた火葬骨を入れた瀬戸焼水注(すいちゅう)2 を納め、東播磨系須恵器鉢で蓋3 をしたものを埋納しており(13世紀代)、2号土壙には副葬品として瀬戸焼把手付(とってつき)水注4 を埋納していました(13世紀代)。二人の副葬品として青白磁脚付(きゃくつき)小壺5 を埋納していました(13から14世紀中頃)。6号墓は、数個の花崗岩を正方形に2段に組んだ基壇(きだん)(下段一辺約1メートル、上段一辺約75センチメートル)で、その下部には一辺約1メートル、深さ約53センチメートルの穴が掘られ、その中に常滑焼(とこなめやき)の大甕(おおがめ)6 を設置していました。この基壇の上段の中央には、45×35センチメートルの長方形の孔(あな)が開いており、その孔の西側の一辺には幅約5センチメートル、長さ約15センチメートル、深さ約5ミリメートルのくぼみ(納骨孔)を設けています。本来は基壇の上に五輪塔が据えられており、納骨孔から遺骨を下の大甕へ落とし込む構造の総供養塔で、下部施設まで判明した貴重な資料です(12世紀末から13世紀前葉)。
の刻印瓦(こくいんがわら)は、当寺が千光寺であると証明した貴重な資料です。
市立歴史民俗資料館では、平成25年1月5日(土曜日)から1月31日(木曜日)の期間中、指定記念『なわてのたから展』を開催します。ぜひこの機会に田原城主夫婦の墓から出土した瀬戸焼の水注や総供養塔から出土した常滑焼の大甕、千光寺が実在したことを証明した刻印瓦をはじめ普段展示していないものもご覧ください。中野遺跡出土 2号井戸「應保二年」銘曲物 平成3年度に中野遺跡内における四條畷市役所東別館建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査により2号井戸から出土した曲物(まげもの)を平成25年度四條畷市指定有形文化財に指定しました。
井戸の形は、直径約3.3メートル・深さ約2.6メートルの穴の中に、長さ約1.3メートル(残存)・幅約15センチメートル・厚さ約0.5センチメートルの板材数十枚を一辺約1メートルの正方形に立て並べ、それらの押さえとして角材を支柱や横桟木(よこさんぎ)として組んだものです。その井戸底の中央に集水施設(しゅうすいしせつ)の曲物を1基設置し、浄水装置(じょうすいそうち)としてその周囲に礫(れき)、曲物の内部に5個の平らな石を敷いていました。この曲物はヒノキ材で、高さ23.0センチメートル・直径50.5センチメートル・厚さ0.5センチメートル、下端部に直径2ミリメートルの円孔(えんこう)が等間隔にあけられています。その外面に縦書きで『如月(きさらぎ)廿日(はつか)應保二年(おうほにねん)』と墨書(ぼくしょ)されていました。應保二年は1162年にあたり、平安時代末のものであることがわかりました。井戸内からは、年号と同じ時期に該当する12世紀後半から13世紀初頭の土師皿(はじざら)・瓦器碗(がきわん)・須恵器練鉢(すえきねりばち)・青白磁合子蓋(せいはくじごうすふた)・砥石(といし)などが出土しています。雁屋遺跡出土 組合せ式木棺・人骨 一括 昭和60年度の発掘調査で雁屋遺跡から弥生時代中期(およそ2100年前)の墓地(方形周溝墓:ほうけいしゅうこうぼ)が4基見つかりました。今回、そこから出土した特に保存状態が良好なひつぎ(木棺)と人骨3点(成人用木棺・子供用木棺・40歳前後の男性人骨)を平成26年度四條畷市指定有形文化財に指定しました。昭和60年度に雁屋遺跡内における畷生会(てっせいかい)脳神経外科病院(現遊々館:ゆうゆうかん)建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査により、弥生時代中期の方形周溝墓を4基検出し、21基の埋葬施設を確認しました。これらのうち、1号方形周溝墓からは7基の木棺、2号方形周溝墓からは13基の木棺を検出しました。持統天皇と四條畷 第41代天皇である持統天皇は、四條畷とかかわりの深い天皇でした。天皇は名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。このうち「讃良」は、四條畷市全域と寝屋川市・大東市の各一部を含む古代「讃良(さらら)郡」の地名からとられたものです。また、「鸕野」も、『日本書紀』によれば讃良郡の中にある地名として「鸕鷀野邑(うののさと)」が出てきます。この地名は、市内の清滝にあった古代寺院正法寺にのちにつけられた山号が「小野山(おのさん)」であることなどから、現在の四條畷市域の一部を指すのではないかといわれています。このように地名を皇族の名に使う場合、その地で生まれ育ったか、領地をもっていたか、その地出身の豪族から乳母が出たためその豪族に養育されたといった理由が考えられると言います。いずれにしても、持統天皇の名には四條畷市域のこととみられる地名が使われており、四條畷とゆかりの深い天皇だったと言えるでしょう。このような歴史溢れるまち松原市で当社も貢献出来れば幸いで御座います。解体工事でお困りの際は是非ご相談下さい。宜しくお願い致します。
四条畷市情報 |
人口と世帯数
人口 55,736人 世帯数 24,278世帯
市立忍ヶ丘あおぞらこども園
市立岡部保育所
小学校
田原小学校
四條畷小学校
四條畷南小学校
くすのき小学校
忍ヶ丘小学校
四條畷東小学校
岡部小学校
田原台四丁目2番1号
大字中野872番地
中野新町11番38号
二丁通町18番1号
岡山東五丁目2番40号
南野六丁目1番25号
砂一丁目7番26号
中学校
四條畷中学校
四條畷西中学校
田原中学校
岡山東五丁目2番10号
西中野一丁目4番35号
田原台五丁目2番1号
市民グラウンド岡山東五丁目135番地の1市民グラウンドテニスコート岡山東五丁目135番地の1市民運動広場清滝大字清瀧1103番地の10市民運動広場さつき大字清瀧604番地の3青少年コミュニティー運動広場岡山東三丁目978番地の1なわて水みらいセンターテニスコート岡山東三丁目978番地の1なわて水みらいセンターテニスコート砂四丁目1番13号田原テニスコート田原台八丁目21番地の1サン・アリーナ25四條畷市西中野一丁目3番6号市民総合センター(市民ホール) 四條畷市中野三丁目5番25号市立市民活動センター四條畷市北出町3番1号教育文化センター四條畷市南野5丁目2番16号四條畷図書館田原図書館四條畷市中野3丁目5-25四條畷市上田原1番地 グリーンホール田原四條畷市夜間運動場1
グラウンド1面(野球、ソフトボール)
岡山東五丁目2番10号(四條畷中学校内)
四條畷市夜間運動場2
グラウンド1面(サッカー、ラグビー)
西中野一丁目4番35号(四條畷西中学校内)
市立公民館
四條畷市中野三丁目5番25号
史跡 伝和田賢秀墓
南北朝時代の武将楠正行(くすのきまさつら)の家臣和田賢秀(わだけんしゅう)の墓所で、賢秀討ち死の地と伝えられています。
史跡 伝楠木正行墓
楠(楠木)正行(くすのきまさつら)は楠木正成(くすのきまさしげ)の子で、南北朝時代の正平三年(1348年)の四條畷の戦いで北朝方の高師直(こうのもろなお)と戦って討ち死しました。
史跡 忍岡古墳(しのぶがおかこふん)
古墳時代前期(約1700年前)の前方後円墳
天然記念物 四條畷楠木正行墓のくす
楠(楠木)正行(くすのきまさつら)の墓所にある樹齢500年以上のクスノキの大木です。
有形文化財 住吉神社の石槽(せきそう)
上田原地区の住吉神社境内にある鎌倉時代の石風呂です。
有形文化財 逢阪石造五輪塔
逢阪地区にある高さ約180センチメートルの花崗岩で造られた五輪塔です。
有形文化財 田原氏墓地出土 青磁袴腰香炉
田原城主の菩提寺である千光寺跡の墓地から出土したもので、もとは初代城主夫婦の墓である3号墓に副葬されていたものです。
有形文化財 千光寺跡出土 田原礼幡キリシタン墓碑
この墓碑は田原城主の菩提寺である千光寺跡から出土したもの
有形文化財 蔀屋北遺跡出土馬具 附 埋葬馬全身骨格
雁屋遺跡出土 組合せ式木棺・人骨 一括
更良岡山遺跡(さらおかやまいせき)出土 翡翠製大珠(ひすいせいたいしゅ)
昭和24年に片山長三氏が四條畷高等学校の地歴倶楽部を指導されて発掘調査を行われた結果、この地域が縄文時代の遺跡であることがわかり、更良岡山遺跡と名づけられました。
雁屋遺跡(かりやいせき)出土 板付(いたつけ)2式大型壺
昭和58年度の調査で雁屋遺跡から発見された弥生時代前期の大きな壺
城遺跡(じょういせき)出土 翡翠製獣形勾玉(ひすいせいじゅうけいまがたま)
平成15年度に国道163号拡幅工事に伴う発掘調査において、城遺跡の河川跡から発見した弥生時代前期の勾玉です。
雁屋遺跡出土 双頭渦文付木製四脚容器(そうとうかもんつきもくせいしきゃくようき)
南山下遺跡(みなみさげいせき)出土 馬形埴輪
忍ヶ丘駅前遺跡(しのぶがおかえきまえいせき)出土子馬形埴輪(こうまがたはにわ)
忍ヶ丘駅前遺跡出土 人物埴輪(頭部)
昭和58年度に忍ヶ丘駅前整備事業に伴う発掘調査において発見しました。同時に発見した土器から古墳時代中期のものと考えています。
岡山南遺跡(おかやまみなみいせき)出土 家形埴輪
岡山南遺跡出土 木製下駄
この下駄は一木造(いちぼくづくり・全体が1本の木から作られているもの)で、平面の形は隅丸長方形、裏面には前後に歯が2本削り出されています。
忍ヶ丘駅前遺跡出土 琴を弾く人物埴輪
この埴輪は、椅子に座り、長さ約9センチメートルの板作りの5本の弦を張った琴を膝にのせています。
雁屋遺跡(かりやいせき)1号・2号方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)共有溝内出土 朱塗り土器 一括
土器は水銀朱が塗布されており、墓上祭祀で用いられた後に溝内に遺棄されたものと考えられます
正傳寺(しょうでんじ)所蔵薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう)
上田原にある正傳寺薬師堂の本尊の薬師如来立像です。
千光寺跡出土 3号墓遺物・6号墓常滑焼(とこなめやき)大甕(おおがめ)・刻印瓦(こくいんがわら)
中野遺跡出土(なかのいせきしゅつど) 2号井戸「應保二年」銘曲物(にごういどおうほにねんめいまげもの)
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